空腹で甘い物を食べると気持ち悪くなる!
でお馴染みの管理人です♪
空腹でスイパラ等に行くと
まずフライドポテト等の「しょっぱい系」
を食べてからのスタートとなります。
皆様は空腹でも、いきなり甘い物OKですか??
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さてさてお待たせしておりました
2018年9月19日(水)@下北沢HANABIさんで行われた
第1回ミニミニ自転車講座のまとめがやっと出来上がりました。
録音に失敗した為(笑)
店主本人がしゃべった記憶を辿りながら書きました。
以下、店主のまとめです↓
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先日の第1回ミニミニ自転車講座は、沢山の方にご静聴頂きましてありがとうございました。
私、店主の自己紹介をさせて頂いたつもりでいましたが、やはりお話しが足りなかったことも反省しつつ、少し追記したいと思います。
中学生でサイクリングに目覚めた高橋少年は高校生になって念願のロードレーサーを手に入れて、本当はオートバイに乗りたかった気持ちを晴らすように大垂水峠や奥多摩有料道路へ自転車を走らせ、ローリング族に混じっての峠のダウンヒルに没頭していきました。
学校が終わると毎日のように自転車で峠に向かううちに、目的はダウンヒルだったはずなのですがヒルクライムもそこそこ走れるようになっていました。
基本的に運動よりも機械的な構造が好きですので、自転車を走らす目的もハンドルバーやサドルの交換で得られる変化や効果の確認と検証が先立っていました。
ですから、峠道などで前を行くサイクリストが見えると、自分の自転車のアップグレード具合を確認したくて誰彼構わず追っかけたものです。
そのなかには自転車競技部の大学生や競輪選手もいましたが、実力差はその時はまだまだ大きなものでした。
実をいうと、高校生になったら自転車部に入って本格的に活動したいと思っていましたが、進学した公立の学校には当然のごとく自転車部はなく、部活は水泳部でした。
小学生の時にスイミングスクールに通っていたので、泳ぐことは(泳げていませんが…)今でも好きなんです。
ですから、自転車に関してはお世話になっていた自転車屋さんのお客さんの有志のチームに入れてもらって草レースに連れていってもらうようになりました。
その草レースも最初の頃は細かいことなんて分からないので見よう見まねで只走っていただけだったのですが、号砲と同時にスタートして一目散にゴールを駆け抜けて、とにかく優勝を目指すことにだんだんと夢中になっていきました。
自転車に夢中になった高校生時代も残り少なくなってきて、いよいよ進路を考えないとならない時期になりました。
自転車に夢中になりすぎて勉強をおろそかにしていましたので、大学進学しての勉強に興味もなくて、自転車に関わる仕事がしたいと思い、自転車のフレームを作るフレームビルダーになりたいと考えていました。
進路相談の時に担任(男)から「高橋ちゃんは競輪だね♪」と既に投げやりな対応…
まぁ、勉強は既にモチベーションダウンでしたので単位も余裕とはいえない状態だったため、後から聞いたところ半分以上は本気の進路指導だったようです。
競輪を目指すきっかけになったのは、やはりフレームビルダーになりたい希望を「プロ選手を経験した方がより良い自転車職人になれる!」と論じた両親の助言でした。
「ただし、大学受験でいったら2浪まで。それまでは家に置いてやる。」との約束でした。
競輪選手を目指す決意をしたのが高3の夏休み前で、とにかくトラックレーサーに乗らないことには話にならないので、自分のレーサーが出来上がってくるまでも借り物のレーサーで毎日街道練習に行きました。
ロードレーサーからトラックレーサーに乗り換えて一番の変化は脚が止められないことです。
加えて変速ギヤもありません。
登りはギリギリと踏み込んで下りはぐるぐる踏まないと前には進みません。
ロードレーサーで簡単に出来ていたことがトラックレーサーでは倍以上の苦労がありました。
ロードレーサーでの登坂はギヤを選んで効率良くシッティングとダンシングでリズミカルに走れていましたが、トラックレーサーでの登坂はギヤが重いので常にダンシングが当たり前でした。
当時、競輪マガジン(業界誌)の対談記事に「レースで踏むギヤの大ギヤ2枚落としを街道練習のどんな場面でも踏みこなせる必要がある」と記してあったので、師匠のいない自分はそういうものなんだと真剣に実践しました。
日々の練習の中で下ハンダンシングやモガキ(スプリント)はロードレーサーでも不足なく出来ていましたが、スタートのスタンディングダッシュだけは動作のコツが分からずに苦手なところでした。
ただ、このスタンディングダッシュは一次試験の1,000mTT(独走)では最重要な要素で、これが上手に出来るか否かでタイムに大きく影響がでます。
ここで、赤信号で止まった後の再スタートは「全てスタンディングダッシュ」という課題を課しました。
そんなこんなで、高校の卒業間近になる頃にはギヤも踏めてスタンディングダッシュも自分なりには出来るようになっていました。
競輪学校の試験は、当時は全国で地区ブロックごとの一次試験で、関東地区は関東管内の競輪場での試験でした。
高校三年生時の秋(卒業見込)の61期の試験は実力不足で見送りましたが、62期からは本気の大真面目で取り組みました。
しかし、62期、63期と独走の自己ベストタイムを更新しつつも合格ラインにタイムが届かず一次試験の突破は実現しませんでした。
2連敗で実家での風当たりも強く、次の64期を実質最後の試験としていたので、試験に向けたピーキングを更に引き上げるために練習内容と予定を更に繰り上げて練習に励みました。
街道練習のギヤ倍数も更に上げて、モガキの本数と内容も更に上げて、全ての信号ダッシュは必須にして、更に布団の中にいるよりもサドルの上にいる時間を長くすることをノルマにしました。
たぶん、その当時のアマチュア(プロたま)は師匠からそれ以上の練習を言いつけられて消化していたと思います。
おそらく、当時の自分は練習量と練習強度が他のプロたまと互角か少し抜けていたようで、64期の一次試験を自己ベストタイム更新でしたがギリギリのタイムで突破しました。
いよいよ本丸の日本競輪学校(NKG)で約ひと月後に二次試験を受験することになりました。
※こちらは当時の資料です(店主私物)
二次試験は静岡県の修善寺にある日本競輪学校で全国の一次試験を突破してきた猛者どもと二泊三日の課程を消化します。
宿泊は修善寺温泉の丸久旅館が常宿で、毎日指定バスで競輪学校に向かい日程をこなします。
集合日の初日は受付と自転車の車体検査に始まり、午後は学科試験です。
受験資格に高卒以上学歴及び同等の学力を有することがありますが、当時は中学生の高校受験程度の内容だったように記憶しています。
学科試験で仲間が苦労していたのは課題作文の提出でした。
これに苦労していた受験生は大概不合格になっていたように思います。
二日目は実技試験で独走(1,000mTT)とハロン(フライング200mTT)です。
独走は南400m走路で、ハロンは333m走路で計測です。
独走は、一次試験でも同様に400m走路で実施しましたから不安はなかったのですが、ハロンは初めての333m走路での、それの200m計測です。
二次試験の実技は公正な試験実施としてタッチ板計測といって、計測板を踏んでスタートとゴールを計測します。
午前と午後に受付番号ごとの班別でそれぞれのタイムを計測します。
全てのタイム計測が終わった受験生は自転車の撤収と最終日の帰宅仕度を済ませて、その後集団でバスで宿に帰ります。
二日目のタイム計測が終わって宿では気のゆるむ受験生もいましたが、私は最終日の「面接」に向けて予習と復習をしました。
私と一緒になって油断しなかった者は後に入学式で会うことになったのです。
二次試験最終日は面接と身体検査です。
全ての日程は昼過ぎに終了して受験生は日本全国に帰郷しました。
はてさて、ひと月ちょっと後の合格発表は如何に!
~続く~
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実はまだ補足があるそうですので
出来上がり次第、追って掲載致します。
楽しみにしている方がいらっしゃるかどうかわかりませんが(笑)
お楽しみに~☆
そして!
第2回ミニミニ自転車講座を11月28(水)に行います。
テーマは「自転車とは何ぞや」
前回同様「満席」が予想されますので
下北沢HANABIさんへのご予約をお早目に!!
管理人